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刊行委員 木本メモ帳より
昭和22(1947)年9月16日(火) 9月13日,潮岬の南海上を発達しながら北上し、15日(月)東海道沖に達した。 その後関東地方沿岸部を通過し、翌16日関東の東海上に抜けた。 この台風で、県内死者592名、行方不明者107名を出す未曾有の被害となった。 前橋では387.4mm、桐生では370.0mmであった。県内では山地一帯の土石流、 そして洪水による被害であった(「群馬県の気象百年」より)。 桐生では、渡良瀬川と桐生川が氾濫、堤防決壊、死者113人、行方不明者33人、 負傷者167人、流失家屋350戸、床上浸水4,929戸、被災者は全市民の63.5%の 約58,000人、被害総額は9億4000万円で、当時の市の予算総額の二年分に相当した。 このなか、桐生中学校、樹徳高等女学校の被害甚大、新川運動場は壊滅的打撃を受けた (「ふるさと桐生のあゆみ」より)。 藤倉喜代丸は「午後五時十分まで野村校長と共に備品を机の上にあげ、戸締まり、 職員生徒の退去完了、新川の美原橋を渡って帰った。」 その日、当直の坂東勇は 80年史 491〜492 そのまま載せる 野村校長の話 494 そのまま載せる 生徒の話も16日(火)の事に関しては そのまま載せる * 米軍の航空写真 だめなら 略図を書き 浸水 倒壊箇所を明記 * 被害状況の数字は、29年合併する川内・相生・梅田村の数字が 入っているかどうかは、後に確認する必要あり。 例えば川内村では8人の死者あり。 17日から後片付けが始まった。 一週間余りで校舎内のヘドロを校庭に運び出す。その後、安田達夫(24高卒)は、 校庭の泥の山を一人で黙々と校外に担ぎ出し、教室内の掃除を続けた。 そのうち協力者が現れ、その熱意は「全校を動かした」(人脈)。 校長野村は感銘し、卒業式で安田に特別賞を贈ったという。 30日には チブスの予防注射 10/7 桐高女の生徒が校庭整備のため応援 前には小学生も来てくれた 11/7 3日間 復興祭を挙行した。 この頃になり漸く落ち着いたのであろう。 復旧工事は、23年の4月に校舎の一部復旧、南北校舎を繋ぐ渡り廊下増築。 25年8月に体育館、 26年1月講堂、 27年10月正門・土手等修築され、およそ5年がかりであったが、 講堂は水害の影響がひどく東西のコンクリートの土台が傾斜し始めていることが判明、 県当局はその修理負担を全額できないとのことで、26年10月24日、総額24万円弱の内、 学校側が10万円程度調達せざるを得ず、保護者に対し拠出金のお願いをすることとなった。 一口百円、出来たら二口以上のお願いであった。(5月1日の在校生数 1048名) 桐生市は、戦争中空襲による被害はほとんど無かったのだが、22年カスリーン台風、 23年8月アイオン台風、24年8月末、キティ台風と連続三年台風に見舞われ大きな被害を受けた。 *生徒の一部では、罹災者救済の募金活動を17日から始め、10月3日、南小学校で行われた 罹災者同盟結成大会には、義捐金16,042円77銭を手渡したという。 (7月の東京白米10kgの小売価格で 約161kg分。11月だと約107kg分に相当する) *足尾線通学生が、授業開始の連絡を受けたのは、9月28日、上神梅〜大間々間は不通で バス輸送であった。客車が運行されたのは、10月17日、全線開通は、10月22日であった。 *桐工では 教職員の被害状況 生徒並びに生徒の家庭の被害状況が、50年史に記載されている。 例えば 負傷生徒2名 家族を失った生徒11名。 また、全校生徒約一ヶ月間 弁当、スコップ持参で各町会へ配属され、復旧工事に従事したとある。 太中では人的被害、校地校舎の被害はなかったが、教職員全員が登校できるまで10日余りかかっている。 桐中に関しては、多分多くの教職員、生徒にかかわり、被害、生活への支障が出ていたことであろう。 但し、具体的資料はない。 松尾八郎教諭の自宅は床上浸水、弟達は押入の上段で寝る始末で、先生は、一週間あまり学校の 宿直室で寝泊まりしたという。また家の片づけには、何人もの生徒が手助けに来てくれたという。 2009/10/13(Tue) 16:53:19 [ No.64 ] |